《批判日本学——通过协作学习解构“日本”的刻板印象》一书,以对“日本论”作为文化民族主义装置的剖析为出发点,指出其通过建构日本的独特性与优越性为日本人提供慰藉,并与西方日本学的东方主义形成共谋。该书的批判路径并非站在外部对意识形态施以冷嘲,而是采取系谱学式的追问,将支撑当代日本“常识”的历史前提对象化。从教育中的“潜在课程”、无经验依据的难民负面形象、自由选择幻象背后的结构性规制,到战争叙事在历史教育中的再生产机制,乃至“宗教宽容”言说与实际宗教实践之间因内外语境而异的裂隙。其深层逻辑在于:批判即生存论实践,揭示生存困境的成因恰是掌握“活得更好”的突破口。刻板印象虽有掩盖现实之力,却能在与真实他者的对话中被打破。由此,该书以协作学习为方法,倡导“学びほぐす”(unlearn),即非抛弃既有知识,而是在学习中抵达另一重境界。并将重构日本形象的使命向一切不同立场者开放,拆解“谁有资格言说日本”的边界。

批判日本学——通过协作学习解构“日本”的刻板印象
所谓的日本论和日本人论,往往通过强调日本独特的历史、日本人的特殊性乃至优越性,发挥着一种为日本人带来慰藉的文化民族主义功能。西方的日本学也曾有对此推波助澜的一面,即便时至今日,以东方主义视角来审视日本的倾向仍屡见不鲜。然而,这种刻板化的表象与现实未必一致。倒不如说,我们需要深入二者之“间”,切身感受表象与现实的不同,并将这种意外的体验同违和感、不快感一起,有时又是与喜悦一起通过语言及其他手段编织出来,从而逐渐改变围绕日本及日本人的刻板印象。参与这种实践,构建多样的日本形象,努力使各种立场的人们都能更轻松地生活——承担这一使命的人,并不局限于日本人。
由加伊塔尼迪斯·雅尼斯、小林聪子、吉野文编著的《批判日本学——通过协作学习解构“日本”的刻板印象》(明石书店,2020年)正是引发此类思考的一本书。编者几乎均为千叶大学国际教养学部的教师,他们有着接纳来自各国留学生、并且在同一课堂上对其与日本学生进行授课的经验。本书以所谓国际化和全球化趋势为背景,立足于“国际日本学”--以希望理解日本的外国人以及希望用外语向外界介绍日本的日本人为目标对象,更进一步瞄准了深层的目的。因为本书试图深入探讨:作为关注对象的"日本"究竟是如何形成的,以及面对它时自身的立场又是怎样的。
这种态度体现在一种系谱学式的追问上,追问那些形成当代日本社会“常识”的历史前提。编者之一小林聪子提醒我们,学校中不仅存在教学大纲中明示的课表课程,还存在一种潜在课程——即学生在不知不觉中习得的规范与价值观。另一位论者追问:为何日本获得认定的难民数量稀少,而且明明没有实际经历过与这类难民的纠纷,人们却会以负面形象来看待他们。还有一位论者在论述日本性别不平等之严重的同时指出,人们自以为是在自由做出选择,实际上却常常受到社会与制度结构的规制,并暗示有必要追问在此基础上的自由究竟是什么。
这种追问并非挖掘并使支撑现代日本的意识形态对象化,仅仅施以冷嘲热讽的批判就了事。揭示生存困境的部分原因,意味着掌握能够活得更好的具体突破口,作者们所设想的,正是以这种方式与日本社会建立关联并生活下去。本书论述了刻板印象如何具有掩盖现实的力量,同时也探寻到:刻板印象可以通过与真实他者的对话和倾听来打破,我们完全可以走出刻板印象之外。
就包含甲午战争、日俄战争乃至亚洲-太平洋战争的亚洲近现代史达成共识,是一项艰难的课题。然而,本书撰稿人之一、专攻日韩近代史的比翁蒂诺·尤利安期待,通过学习历史教育中再生产出来的关于战争的刻板印象式叙事的生成过程,或许能够培养超越刻板印象的认识。
编者之一加伊塔尼迪斯·雅尼斯批判性地考察了“日本人因为无宗教,或因为多神教,所以对宗教宽容”这一言说。他指出,此处同样存在实际进行的宗教实践与关于“宗教”的叙事之间的差异,而且这种叙事在国内与国外也不尽相同。通过这些分析,我们平时不经意使用的"宗教"一词的含义的本身也被重新追问——批判日本学的射程甚至可深及于此。
如此,本书提议通过碰撞各种观点的协作学习,来“学びほぐす”(解构性学习)关于“日本”的刻板印象。“学びほぐす”(unlearn)是年轻时的鹤见俊辅在美国与海伦·凯勒会面交谈时从她口中听到的话。可以说,那并非在学得众多知识后将其抛弃,而是在学习的过程中抵达另一种境界。

日文原文
いわゆる日本論や日本人論は、日本の特異な歴史や日本人の特殊性ひいては優秀さを強調することで日本人に癒しをもたらすような文化ナショナリズムの機能をしばしば果たしてきた。西洋の日本学にも、それを後押しする面があったし、今でも日本をオリエンタリズム的な眼差しのもとでとらえる傾向が見られることは少なくない。しかし、このようなステレオタイプ的な表象と現実は必ずしも一致するものではない。むしろその〈あいだ〉に分け入り、表象と現実が異なるものであることを実感し、その意外な経験を違和感や不快さとともに、またあるときは喜びとともに、言葉その他の手段で紡ぎ出すようにして、日本や日本人をめぐる既存の表象を少しずつ作り変えていくこと。そのような営みに加わり、さまざまな日本像を立ち上げ、さまざまな立場の人たちが生きやすくなるようにしていく企ての担い手は、日本人であるなしを問わない。
ガイタニディス・ヤニス、小林聡子、吉野文編『クリティカル日本学―協働学習を通して「日本」のステレオタイプを学びほぐす』(明石書店、2020年)は、そのようなことを考えさせてくれる一冊だ。執筆者はほぼ全員が千葉大学国際教養学部に所属する教員たちで、さまざまな国からの留学生たちを受け入れ、日本人学生もともに学ぶ場で教えてきた経験を持つ。いわゆる国際化やグローバル化の動きを踏まえ、日本を理解したい外国人、そして日本を外国語で発信したい日本人を意識した国際日本学が下敷きになっているが、本書はさらにもう一歩踏み込んだところを狙っている。というのも、そのような関心の対象となる「日本」がどのようにできてきたものなのか、そしてそれに向き合う自分の立ち位置とはいかなるものかまで、問おうとしているからである。
その姿勢は、現代の日本社会の「常識」を形作っている歴史的前提を系譜学的に問うアプローチに表われている。編者の一人である小林聡子は、学校には学習指導要領に明記されている顕在的カリキュラムだけでなく、児童生徒たちが知らず知らずのうちに学ぶようになっている規範や価値観としての潜在的カリキュラムがあることに注意を促している。別の論者は、なぜ日本では認定される難民の数が少ないのか、しかも実際にそうした難民とのトラブルを経験したわけでもないのに、ネガティヴなイメージでとらえられるのかを問うている。また別の論者は、日本における男女間格差の大きさについて論じつつ、自分では自由に選択しているつもりでも、実際には社会や制度の構造に規定されている場合が多いことを指摘し、それを踏まえたうえでの自由とは何かまで問う必要を示唆している。
それは、現代日本を支えているイデオロギーを掘り起こして対象化し、たんにシニカルな批判を加えて終わりというものではない。生きづらさの理由の一端を明らかにすることは、今よりもよく生きるための具体的な突破口を手にすることであり、そのようにして日本社会と関わりながら生きていくことが著者たちには想定されているからである。ステレオタイプがいかに現実を覆い隠す力を持つかを論じた本書は、ステレオタイプは生身の相手との対話と傾聴によって打破しうること、ステレオタイプの向こうに出ることができることも探り当てている。
日清戦争と日露戦争さらにはアジア・太平洋戦争を含むアジアの近現代史についての認識のすり合わせは、困難な課題である。しかし、本書の執筆者の一人で、日韓近代史を専門とするビオンティーノ・ユリアンは、歴史教育において再生産される戦争についてのステレオタイプ的なストーリーの産出過程を学ぶことによって、ステレオタイプを乗り越えこえていくための認識を育てることができるのではないかと期待を寄せている。
編者の一人であるガイタニディス・ヤニスは、「日本人は無宗教だから、あるいは多神教だから宗教に寛容である」という言説を批判的に考察している。彼は、ここでも実際に行なわれてきた宗教的実践と「宗教」についての語りの〈あいだ〉に差異があること、また語りにも国内と国外とで違いがあることを指摘している。そうしたことを通じて、私たちが普段から何気なく使っている「宗教」という言葉の意味が問い返される。クリティカル日本学の射程はそこまで及ぶものである。
このように本書は、さまざまな視点を突き合わせる協働学習を通して、「日本」についてのステレオタイプを学びほぐすことを提案している。「学びほぐす」(unlearn)は、若い頃の鶴見俊輔がアメリカでヘレン・ケラーに会って話をしたときに彼女の口から出た言葉だ。それはたくさんのことを学ぶうちに、学んだことを捨て去るのではなく、別の地平に出ることだと言えるだろう。
目录
はじめに
序章 クリティカル日本学への招待──研究対象としての「日本」を問い直す[ガイタニディス・ヤニス]**第1節 他者への欲望と軽蔑から生まれるステレオタイプ 第2節 日本学から国際日本学へ 第3節 国際日本学からクリティカル日本学へ 第4節 本書を通して何がみえるか
第1章 日本人は世界がうらやむ特質を持っているのか[見城悌治] 第1節 「日本人はきれい好き」という神話 第2節 現代大学生の「日本人/日本文化」イメージとは? 第3節 「日本人の美徳」の行方──日本人は世界の中でも「独特」なのか 第4節 「日本(人・文化)イメージ」の歴史的構築過程
第2章 日本は自殺大国か[ガイタニディス・ヤニス] 第1節 「日本=自殺大国」というイメージ 第2節 「日本人の自殺は集団本位的」という言論 第3節 「日本は自殺大国」という説から排除される、あるいは新しく組み込まれる死者 第4節 日本人論と「巻き添え被害」としての自殺
第3章 日本の歴史には正しい見方があるのか[ビオンティーノ・ユリアン] 第1節 歴史に対するステレオタイプを考える 第2節 日清戦争・日露戦争とその歴史認識 第3節 日清戦争・日露戦争の国際性を探求する 第4節 「グローバル」あるいは「外から」の問い直し
第4章 日本人と人種差別は関係ないのか[小林聡子] 第1節 日本で「人種」は課題なのか 第2節 定義される「人種」 第3節 「白人ではない」黄色人種──制度・表象・生活 第4節 社会現実としての人種──表象と内面化の課題
第5章 日本に「本当の難民」はいないのか[佐々木綾子] 第1節 「難民」とは誰か──二極化されるステレオタイプ 第2節 「難民」の認定をめぐる歴史的背景 第3節 「難民」カテゴリーのスティグマ化 第4節 「難民」のアイデンティティとカテゴリーのもつ社会的意味
第6章 日本の女性は専業主婦、男性はサラリーマンになりたいのか[デールSPF] 第1節 国際基準から日本の現状を見る 第2節 制度と法律 第3節 「伝統」から「男性・女性限定」へ 第4節 個人、「自由」とジェンダー
第7章 日本人は性的逸脱を好むのか[ガイタニディス・ヤニス] 第1節 日本アニメの海外発信とその批判 第2節 「逸脱」の根本的要素とメディアの役割──「援助交際」の事例 第3節 「日本、変態の国」──他者の逸脱、自我の安心 第4節 逸脱と社会現象──メディア上の「事実」の自然化
第8章 日本語は難しいのか[吉野文] 第1節 日本語はやっぱり「難しい」? 第2節 母語話者から見た日本語の「難しさ」 第3節 日本語学習者から見た日本語の「難しさ」 第4節 日本語によるコミュニケーション
第9章 日本人は外国人と話すのが苦手か[西住奏子] 第1節 異文化間コミュニケーションを巡るステレオタイプ 第2節 異文化間コミュニケーションを捉える枠組み──語用論(Pragmatics) 第3節 ポライトネス理論と異文化間コミュニケーション 第4節 ステレオタイプから逃れるには
第10章 日本の教育は平等か[小林聡子] 第1節 「教育の平等」をどこから見るか 第2節 ひとしく教育を受ける「国民」は「all people」? 第3節 「顕在的・潜在的カリキュラム」を考える 第4節 ミクロからなるマクロ
終章 クリティカル日本学の魅力──最後の事例:「日本人は無宗教か、多神教的で寛容か」[ガイタニディス・ヤニス] 第1節 「日本:最も宗教的かつ無神論的な国」という偽造のパラドックス 第2節 日本の宗教はどのように語られてきたか(国内編) 第3節 日本の宗教はどのように語られてきたか(国外編) 第4節 「宗教とは何か」という問いよりも、「宗教と呼ぶのは何故か」が重要
【協働学習への招待】 第1章 日本人は世界がうらやむ特質を持っているのか 第2章 日本は自殺大国か 第3章 日本の歴史には正しい見方があるのか 第4章 日本人と人種差別は関係ないのか 第5章 日本に「本当の難民」はいないのか 第6章 日本の女性は専業主婦、男性はサラリーマンになりたいのか 第7章 日本人は性的逸脱を好むのか 第8章 日本語は難しいのか 第9章 日本人は外国人と話すのが苦手か 第10章 日本の教育は平等か 終章 日本人は無宗教か、多神教的で寛容か
あとがき 索引**
作者簡介

伊达圣伸,1975年生于宫城县仙台市。东京大学文学部毕业,同大学研究生院人文社会系研究科硕士课程结业,法国国立里尔第三大学博士课程结业(Ph.D)。现任东京大学研究生院综合文化研究科地域文化研究专业教授。专业为宗教学、法语圈地域研究,尤其致力于以法国、魁北克、日本为中心的世俗主义(laïcité)比较研究。除围绕宗教与公共空间的思想史、社会史外,对以“小国”概念为线索的近现代日本思想亦颇有兴趣。主要著作有《世俗主义、道德与宗教学》(劲草书房)、《从世俗主义解读现代法国》(岩波新书)等。合编著有《A New Approach to Global Studies from the Perspective of Small Nations》。
春生编辑
金溪、夏生审校