会 期‍‍

2026年1月17日(土)~3月29日(日)

会 場‍‍‍

‍‍姫路文学館

兵庫県姫路市山野井町84‍‍

・最寄のバス‍

市之橋文学館前バス停 から 徒歩4分(城周循環バス) 男山千姫天満宮バス停 から 徒歩4分(城周循環バス) ‍ 最寄駅 山陽電鉄「山陽姫路駅」、JR「姫路駅、京口駅」

主 催‍‍ 主催:姫路文学館(兵庫県姫路市) 共催:日本文化研究センター(京都市西京区) 監修:劉建輝 協力:京都文化財研究所所長石川肇 編集・撮影:石川肇、戦暁梅、劉影、張景怡 監 修

劉建輝( りゅう・けんき )、1961年、中国遼寧省生まれ。遼寧大学卒業後、神戸大学大学院博士課程修了。北京大学比較文学・比較文化研究所助教授を経て、現在、国際日本文化研究センター教授。日中比較文学・文化専攻。 背景解説及び一部の図像‍‍ 昭和6年(1931年)の満洲事変に始まり、昭和20年(1945年)の終戦に至るまでの約15年間にわたる日中戦争および太平洋戦争は、当時の政府が「総力戦」と称したように、従来の国内秩序を根底から変容させ、国民全員を戦争体制に組み込む未曾有の戦争であった。 そして、戦場は沖縄を除き、その大部分が中国大陸や南太平洋諸地域といったいわゆる「外地」に展開されたため、この期間における文化的活動の多くは、常に「大衆」および「外地」を基軸として進められていた。 本展では、戦時下において前線の兵士と銃後の家族・国民に向けて、日本国内外で刊行された書籍、絵画、絵葉書、地図、宣伝ビラなどの資料を通じて、なぜ「大衆」が熱狂的に戦争へと駆り立てられたのか、その背景に存在した「外地」関連の文化生産がいかに豊富であったのか、そしてそれによって「国民総動員」が文化的にいかなる形で実践されたのかを考察する。 展示は、〈作家と兵士が見た戦場〉、〈従軍画家の描いた大陸前線〉、〈南へのまなざし―画家たちの“南洋”表象〉、〈前線と銃後を支える大衆―ラップナウ・コレクションに見る戦時下の文化生産〉の4章構成により、戦時文化の諸相を多角的に検証する。

戦時下の大衆文化: 統制・拡張・東アジア
▲『戦時下の大衆文化: 統制・拡張・東アジア』劉建輝/石川肇 編,東京:KADOKAWA,2022,目 次|第1章 作家と兵士が見た大陸-満蒙・華北・華中・華南 1.従軍作家と兵士たちの戦場|2.満蒙|3.華北|4.華中|5.華南|6.大陸全般|第2章 従軍画家の描いた大陸前線-戦場・陣中・風景・風俗 1.戦場と戦闘|2.陣中生活|3.宣撫工作|4.風景と風俗|第3章 南へのまなざしー画家たちの“南洋”表象 1.作家と兵士たちによる南方表象|2.絵葉書に描かれた南方|3.画家の描いた南方-古城江観・清水登之・宮本三郎・伊東深水|第4章 前線と銃後を支える大衆-ラップナウ・コレクションに見る戦時下の文化生産 1.労働動員|2.前線への慰問|3.銃後を支える女性たち|4.国債と募金による前線支援|5.産業界からの支援|6.家族を守る保険と医療|7.国内外への呼びかけ|8.米軍による宣伝ビラ|第1 章 作家と兵士が見た大陸 満蒙・華北・華中・華南

昭和12年(1937年)の日中戦争勃発後、戦地の状況を国内に伝えるため、 一部の作家は出版社や新聞社、陸海軍報道部の派遣により中国各地の前線に赴き、多くの戦場をめぐる報告文学を生み出した。

たとえば、南京攻略戦に参加した部隊を取材して執筆した石川達三の『生きてゐる兵隊』や、徐州会戦に従軍しその戦場体験を記した火野葦平の『麦と兵隊』などがその代表作として知られる。このほかにも、従軍作家や兵隊作家、さらに後に「ペン部隊」として出征した軍報道班員による 作品群が、いわゆる「戦記文学」と総称され、戦時中に大いに流行した。 しかし、その一方で、戦場や戦闘を主題とする作品と並行して、15年にわたる戦時期には、臨時訪問や現地滞在の作家による中国大陸各地の風土や風俗を紹介する案内書や旅行記も多数創作され、両者が相まって当時の中国への「まなざし」を形成し、国民の戦場や戦争に対する認識を規定していた。 本章では、これまで十分に検討されてこなかった後者の大陸表象に焦点を当て、一般大衆がどのような現地情報を取得し、それによっていかなる「中国像」を抱くに至ったのかを、文学作品や旅行記の表紙・挿絵等を通して提示する。 1.従軍作家と兵士たちの戦場 戦時中、火野葦平の『麦と兵隊』 が「戦記文学」の一大ブームを巻き起こしたが、その前後にも林芙美子、上田広、丹羽文雄などの作家や一部の従軍兵士が、戦場での体験を記し、それぞれの視点から戦意高揚を意図しつつ、前線の過酷な状況を内地に伝え、国民の間に大きな反響を呼んだ。

火野葦平
▲火野葦平
林芙美子、 上田広、丹羽文雄、岸田國士
▲林芙美子、 上田広、丹羽文雄、岸田國士2.満蒙

満洲事変、さらに熱河事件をはじめとする一連の事変を通じて、日本は1930年代前半に段階的に満洲および内モンゴルの一部を占領し、植民地経営を開始した。それに伴い、多くの作家が現地に移住し、後に訪れた文学者とともに、 数々の「満蒙」を表象する作品を世に送り出した。とりわけ満洲については、「移民」や「開拓」を特別な主題とし、理想郷としての「満洲幻想」を形成するに至った。

満蒙上田広、菅野正南、小泉菊枝、大陸開拓文藝懇話會
▲満蒙上田広、菅野正南、小泉菊枝、大陸開拓文藝懇話會
中西伊之助、北村健次郎、今枝折夫、保田與重郎
▲中西伊之助、北村健次郎、今枝折夫、保田與重郎3.華北

1937年の盧溝橋事件後、日本軍は速やかに北京、天津など華北一円を占領し、 傀儡政権を樹立して植民地支配を開始した。そして、これらの地域には日本や満洲などから多くの日本人が移住し、さらに訪問者も加わって現地を題材とする滞在記や訪問記を多数残した。これらの記録は、人々の大陸への関心を喚起し、膨張する日本の「夢」を強く刺激していた。 #

村上知行、立野信之、清水安三、櫻井徳太郎
▲村上知行、立野信之、清水安三、櫻井徳太郎
水野薫、宮本幹也、山下通信、長井壽助
▲水野薫、宮本幹也、山下通信、長井壽助4.華中

上海や南京などの華中地方は、従来より日本からの移住者や訪問者が多く、 1920年代からすでに案内本や旅行記が刊行されていた。戦時中にはさらに多くの作家や一般人がこの地域を訪問し、上海を中心に現地の生活や風俗習慣を紹介する出版物を多数刊行した。とりわけ、一部の長期滞在者による生活記録は多くの注目を集め、一時的に上海ブームを引き起こした。 #

横光利一、村松梢風、松井翠聲、吉田東佑
▲横光利一、村松梢風、松井翠聲、吉田東佑
星野芳樹、内山完造、山本和也、白須賀六郎
▲星野芳樹、内山完造、山本和也、白須賀六郎5.華南

日中戦争勃発の一年後、日本軍は段階的に広東、海南島などを占領した。これ に伴い、他の占領地と同様、報道機関をはじめ国民の関心が急速に当該地域へ集中した。その結果、いわゆる「南支」を対象とする案内・紹介を目的とした書籍が多数刊行され、従来、日本との関係が希薄だった地域の状況や情勢を初めて内地に紹介した。 #

西晴雲
▲西晴雲
村松梢風、神田正雄、ハーリ・クンラ、伊藤金次郎
▲村松梢風、神田正雄、ハーリ・クンラ、伊藤金次郎6.大陸全般

かつての「大陸雄飛」という言葉に象徴されるように、近代以降、日本のさまざまな中国進出によって、国民のまなざしは常に大陸全体に向けられていた。このような背景の下で、前記の各占領地への注目とは異なる形で、中国全般にわたる伝統的な文化や風習、さらにその後の変容や現状について、移住者や訪問者の視点を交えて数多く記録された。その意味で、戦時中とはいえ、ここに取り上げる一連の刊行物は、中国人の生活実態をより具体的に観察し、その全体像を示唆するものとなっている。 #

平水多嘉志、水木茂、山本実彦、村松梢風
▲平水多嘉志、水木茂、山本実彦、村松梢風
嘉村満雄、荒田俊彦、長野朗、米田祐太郎
▲嘉村満雄、荒田俊彦、長野朗、米田祐太郎第2章 従軍画家の描いた大陸前線 戦場・陣中・風景・風俗日中戦争勃発後、陸軍省と海軍省は戦意高揚と戦争記録の作成を目的として、多くの従軍画家を戦場に派遣した。その数は終戦時までに延べ数百人に達したとされる。彼らの描いた戦争記録画は、国内で開催された「聖戦美術展」などで展示され、銃後の国民を鼓舞する装置として極めて重要な役割を果たした。

しかし、一連の美術展で展示されたのは彼らの全画業のごく一部に過ぎず、大半の作品は軍事郵便「絵葉書」に印刷された上、出征兵士や国内の軍属に配布され、前線と銃後を結ぶ重要なツールとして広く利用された。 そして、これら絵葉書化された記録画は、意外にも戦場や戦闘を表現する作品は少なく、兵士の陣中生活や占領地住民との交流を描いたものを含めても約半数程度であり、大多数は中国各地の風俗や風景を捉えた作品であった。 いわば、銃後の国民を安心させる意図と、責務としてのノルマを果たした後、画家たちは職業的習慣により、自由に目の前の中国人の生活風景や異国の自然風景をキャンバスに描いたのである。これほど多数の画家集団が一時期に集中的に他国を表象した事例は極めて特異であり、その大陸への「まなざし」は時代を超えて、貴重な文化的記録として大きな意味を持っている。 1. 戦場と戦闘 前線の状況を銃後の国民に伝え、宣伝および記録のために戦場と戦闘を描くことが、従軍画家たちの最大の使命であった。そのため、各画家は一定数の臨戦や突撃の場面をキャンバスに捉え、戦場の緊張感を活写した。しかし、国内で開催された展覧会の出品作に比べ、郵便絵葉書に描かれた戦場や戦闘の場面はいずれも苛酷なシーンを避け、兵士たちの雄姿を強調する構図となっている。 #

2. 陣中生活 出征中の兵士たちがどのような日常を過ごしているのかという陣中生活の情報は、親族をはじめ一般国民の関心事であったため、画家たちはその現場も積極的に描いた。それぞれの作品には、入浴、理容、炊事、娯楽などの様子が的確に描写され、銃後を安心させる宣伝媒体として大いに機能していた。

3.宣撫工作 宣撫とは、各占領地において現地住民が敵対行動に走らず、協力的な態度を取らせるために行われた融和策の一つである。難民保護や治安維持が主な任務であったが、占領地住民の人心を掌握するプロパガンダ的側面も否定できない。この宣撫工作の成果を内外に示すため、画家たちは両者の「友好」的な情景も数多く描出した。

4.風景と風俗 従軍画家たちは「彩管部隊」とも称され、派遣された各前線で戦場の状況を記録した。しかし、その責務を果たす一方で、彼らは眼前に広がる異国の雄大な自然や生活風俗にも職業的視点を注いでいた。そして、その関心は戦闘よりもむしろ強かったことが伺え、中国各地の風景を旺盛な好奇心を示す筆致で描き留めていた。これらの作品は、彼らが従軍画家である前に、まず一人の画家であったことを明確に示している。

第3章 南へのまなざし 画家たちの“南洋”表象
▲第3章 南へのまなざし 画家たちの“南洋”表象

昭和16年(1941年)の太平洋戦争勃発後、日本は国を挙げて「南進」を推進し始めた。そして、いわゆる「大東亜戦争」を完遂すべく、「対敵宣伝、敵戦意の破砕」を目的として、まず陸軍の主導で「宣伝班」が編成され、50名以上の文人、画家、音楽家が南方戦線に派遣された。その後も戦局の拡大に応じ、画家だけでも「宣伝班」とは別に陸軍省から15名、海軍省から13名が追加派遣された。

これらの画家が描いた戦場や戦闘、現地の風景や風俗を題材とする作品は、帰国後に開催された「大東亜戦争従軍画展」(1942年7月)や「陸軍省派遣南方戦線従軍報告画展」(1942年8月)などで一部が展示されたが、大半の作品は兵士やその家族に配布する軍事郵便絵葉書に印刷され、一般国民の間で広く流布した。 本章では、日本近代における「南洋」表象の経緯を簡単に振り返った上で、戦時中に南方諸国に従軍し、現地の風景や風俗を絵葉書に描き残した画家の作品を取り上げ、それらがいかに従来の表象を継承しつつ新たに「南方」のイメージを形成し、またそれによって国民の中でいかなる「南方」への想像力が喚起されたかを検証する。 1.作家と兵士による南方表象

2.絵葉書に描かれた南方

3.画家が描いた南方 古城江観(1891年~1988年)

古城江観は鹿児島出身の日本画家で、早くに同郷の黒田清輝に認められ、東京美術学校に入学して福井江亭に師事し、日本画を学んだ。その後、1923年から1932年まで約11年間にわたり世界を旅し、スケッチを描きながら南洋諸国を訪れ、南洋を描いた最初の日本人画家となった。戦時中には南方関連の画集『南を描く』を刊行し、軍の南方進出を支持する姿勢を示した。また、たびたび訪中し、従軍画家としてスケッチを中心とする作品を数多く残した。
▲古城江観は鹿児島出身の日本画家で、早くに同郷の黒田清輝に認められ、東京美術学校に入学して福井江亭に師事し、日本画を学んだ。その後、1923年から1932年まで約11年間にわたり世界を旅し、スケッチを描きながら南洋諸国を訪れ、南洋を描いた最初の日本人画家となった。戦時中には南方関連の画集『南を描く』を刊行し、軍の南方進出を支持する姿勢を示した。また、たびたび訪中し、従軍画家としてスケッチを中心とする作品を数多く残した。

清水登之(1887年~1945年)

清水登之は栃木県出身の洋画家で、若年期に洋行し、アメリカやフランスで研鑽を積んだ。帰国後は東京を拠点に画壇で活動したが、戦時中はいち早く従軍画家として中国に渡り、戦争画を制作した。その後、南方にも派遣され、南方での取材に基づく作品群を『南方従軍画信』として刊行した。
▲清水登之は栃木県出身の洋画家で、若年期に洋行し、アメリカやフランスで研鑽を積んだ。帰国後は東京を拠点に画壇で活動したが、戦時中はいち早く従軍画家として中国に渡り、戦争画を制作した。その後、南方にも派遣され、南方での取材に基づく作品群を『南方従軍画信』として刊行した。

宮本三郎(1905年~1974)

宮本三郎は石川県出身の洋画家で、早くに上京し、川端画学校で藤島武二、安井曾太郎らに師事した。その後、一時渡欧し、パリなどで洋画の研鑽を積んだ。戦時中は、まず陸軍省嘱託として中国に従軍し、太平洋戦争勃発後にはさらに南方戦線に派遣された。戦争画家としては、特に「山下、パーシバル両司令官会見図」で知られるが、その間に制作された現地取材作品は、後に『宮本三郎南方従軍画集』として刊行された。
▲宮本三郎は石川県出身の洋画家で、早くに上京し、川端画学校で藤島武二、安井曾太郎らに師事した。その後、一時渡欧し、パリなどで洋画の研鑽を積んだ。戦時中は、まず陸軍省嘱託として中国に従軍し、太平洋戦争勃発後にはさらに南方戦線に派遣された。戦争画家としては、特に「山下、パーシバル両司令官会見図」で知られるが、その間に制作された現地取材作品は、後に『宮本三郎南方従軍画集』として刊行された。

伊東深水(1898年~1972年)

伊藤深水は東京出身の日本画家で、若くして中山秋湖、鏑木清方に師事した。デビュー後は美人画の名手として知られるようになり、日本画壇を代表する画家の一人に数えられるようになった。戦時中は、従軍画家として中国戦地を約1年間取材し、その後、海軍報道班員として召集され、南方諸島へ派遣された。この間に約4000枚ものスケッチを残し、その一部は絵葉書として印刷・発行された。

第4章 前線と銃後を支える大衆

ラップナウ・コレクションに見る戦時下の文化生産

日中開戦後、政府は戦争長期化による物資不足や軍事力増強に伴う労働力不足を背景に、国民の人的・物的資源を全面的に統制・運用するための「国家総動員法」(1938年)を制定し、戦争完遂に向けて全国民を総動員する体制を確立した。

その実施は「国民徴用令」「女子挺身勤労令」「学徒戦時動員体制確立要綱」「国民精神総動員運動」などによって具体化され、全国民に向けて「尽忠報国」「挙国一致」「堅忍持久」「進め! 一億火の玉だ」などのスローガンが掲げられた。そして、これらのスローガンを国民の心に深く浸透させるため、膨大な数のポスターや絵葉書、宣伝ビラなどが制作され、大規模な宣伝工作が展開された。 日文研では、長年にわたる画像研究の一環として、戦時中のこれらの「宣伝物」を意識的に収集してきた。近年、アメリカの実業家で世界的に著名な史料収集家ドナルド・ラップナウ氏より約6万点の画像資料の寄贈を受け、当分野の収蔵を一層充実させることとなった。 本章では、このラップナウ・コレクションから戦時中の「銃後」に関連するポスターや絵葉書、宣伝ビラなどを選び、それらがいかにして国民の内外の「時局」への関心を喚起し、銃後の言論空間を形成したかを検証する。 1.労働動員

2.前線への慰問

3.銃後を支える女性たち

4.国債と募金による前線支援

5.産業界からの支援

6.家族を守る保険と医療

7.国内外への呼びかけ

8.米軍による宣伝ビラ

原文选自『戦時下の大衆文化: 統制・拡張・東アジア』。

・感谢作者出版社授权转载。

・图片源于本书。