本文通过对渡边清《破碎的神》的分析,讨论了战败后日本社会中普通人的思想变化与精神状态。文章指出,战败不仅意味着经济与社会秩序的崩塌,也使原有的价值体系失去意义,人们不得不重新思考自身与国家的关系。作为复员兵的渡边清,一方面批判战时的天皇制与国家主义,另一方面也对战后流行的“民主主义”等新话语保持怀疑,展现出一种拒绝既有框架、从个人经验出发重新理解世界的姿态。

战败后的日本社会中,人们究竟在思考些什么?《破碎的神》一书正是探究该问题的绝佳资料。
渡边清1925年生于静冈县富士郡上野村,是一户自耕农家庭的次子。如同当时大多数农家子弟一样,即便学业优异,家中也无力负担中学的学费。加之身为次子,无望继承家业,遂于1941年志愿加入海军。1944年10月,他在莱特湾海战中搭乘的战列舰“武藏”号沉没,但渡边却得以生还。复员回到故乡后,于1946年4月前往东京。他边工作边继续求学,后来加入了以作家野间宏等人为中心的合评会。1969年,出任日本战殁学生纪念会(“和辺会”)的事务局长,致力于“战争体验的思想化”,并出版了自身的战争体验与天皇观著述,后于1981年病逝。
《破碎的神》一书记录了渡边复员后前往东京之前的经历,1977年初版刊行。书名意指以在战争期间被称为“现人神”的天皇为顶点的信念体系的崩塌。
本书的背景
或许有人会问:战后已逾八十年的今天,阅读此书究竟有何意义呢?战败后的那段时期,在一切既有秩序瓦解、人们不得不从零开始思考事物的意义上,可谓是一个极为有趣且例外的时代。
首先,经济秩序崩溃。城市在空袭中化为灰烬,制造业大企业陷入毁灭状态。急剧的通货膨胀使金融资产失去意义,而生产粮食的农村则暂时占据了优势地位。由于战时延续下来的粮食管制,稻米等农产品被政府以公定价格强制收购(供出),但同时,以公定价格数十倍的价格倒卖食品和物资的黑市交易横行无忌。
由于这种经济秩序的崩溃,当时甚至出现了东京帝大毕业的大企业职员收入,不及从零开业的小贩的情况。后人回忆中常用的那句“战败后看到了青天”,不仅仅意味着战争结束的安心感,也意味着一种既有阶层秩序崩塌所带来的解放感。
此外,战败后也是一个人口急剧流动的时期。除约310万身处各战场的日本兵、约350万“满州”开拓移民及其他民间人士“复员”“遣返”回到内地之外,约210万军人军属和约100万民间人,共计约310万人在战败前已经死亡。1945年11月时,除冲绳外内地人口约为7200万,也就是说大约每20人中就有1人死亡,每10人中就有1人作为难民从海外归来。此外,从城市地区被强制疏散的儿童、因空袭而失去家园和工作的疏散者等,也有大量人员不得不从荒废的城市向农村地区暂时迁移。本书各处都描绘了这些人的身影。
这种人口流动并非仅发生在“日本人”之中。战败后,朝鲜、台湾、桦太等“外地”及冲绳从日本分离,战时被动员到“内地”的朝鲜人等约220万人中,大约七成返回了故乡。然而,由于日本政府设置了随身携带财产的限制,加之朝鲜半岛处于内战状态,不少人无法归国,滞留日本。本书1945年10月26日的记述中提及的“收废品的金先生”,便是这类事例之一。

《人间宣言》是日本昭和天皇裕仁于1946年1月1日发布的诏书,通称为《关于新日本建设的诏书》,另有《终战翌年诏书》《元旦诏书》等别称。该诏书以明治天皇《五条御誓文》为指导方针,倡导破除旧习、发展民生,并通过引用誓文内容明确否定天皇作为“现御神”(具有人类形态的神)的神格地位,强调天皇与国民关系基于相互信赖而非神话传说。1945年8月日本接受《波茨坦公告》投降后,驻日盟军最高司令麦克阿瑟主导战后重建工作。诏书发布后,裕仁于次月展开首次全国巡访(“人间旅行”),以亲民形象接触民众。该诏书采用汉文训读体书写,成为日本最后一份此类公文,标志着天皇诏书神圣性的终结。
而战败,更是精神秩序的崩溃。直到战败前还是敌人的美国被奉为楷模,被神格化的天皇发表了人间宣言,被视为最高荣誉的战死变成了毫无意义的牺牲。在这样的背景下,有人借势追捧“文化国家”“民主主义”等流行话语,但越是认真思考的人,越对这些话语产生抵触感。正是从这些人群中,产生了不依赖既有思想框架、试图构建新框架的尝试。
战败后的这一时期之所以有趣,正在于此。既有的经济、社会与思想秩序已然崩溃,人们开始尝试从零重新建立新的秩序。但在这一稀有瞬间,能展示当时人们在思考什么、如何摸索的资料,并不多见。《破碎的神》之所以珍贵,正是因为它具有这样稀有的特性。
本书的特征

记录这一时期农村的著作,有新山新太郎的《战败那时的村庄》(农山渔村文化协会)等。但渡边清的《破碎的神》的特点在于,它以1945年9月2日至1946年4月20日的日记形式,以复员兵的视角鲜极地记录了当时人们的群像。书中记载的村民动向——例如战殁者遗属家庭的情形(11月16日、2月21日、3月10日)、对疏散者的排斥(1月17日、2月8日)、对城市的反感(12月6日)、对原上司的复仇(12月25日)、军用物资的倒卖(4月3日)等记述——都很好地反映了当时的世相。
但《破碎的神》更为独特之处在于,它以一名复员兵的精神动向为形式,记述了拒绝一切既有“框架”,试图从零开始思考的姿态。在本书中,渡边挣扎着试图摆脱以天皇为顶点的战时的“框架”。但同时,他也挣扎着试图拒绝作为战后“框架”的“文化国家”和“民主主义”。例如12月17日的记述如下:
天皇算个啥
日本算个啥
爱国心算个啥
民主主义算个啥
文化国家算个啥
哼,这些东西全都给我见鬼去吧
在本书中,渡边憎恨并反复批判的对象,是那些在战时宣扬“爱国心”、战后宣扬“民主主义”的教师和知识分子(11月15日、3月4日、4月9日)。在他看来,这种机会主义者的最甚者正是天皇。在日本国宪法政府草案公布时,渡边如此记录(3月8日):“丝毫不反省自己的责任,甚至借昔日敌人的司令官撑腰,也要继续当天皇。这种不愿放手的顽固模样,只能说极其厚颜无耻。”“如此毫无节操、极不负责的天皇,又怎能称其为国民的‘象征’呢?”
用“军国主义”“民主主义”“和平主义”之类的“框架”来为渡边的这种思想归类是毫无意义的。他一方面写道“曾经为敌的美国,今后对我来说仍然是敌”(3月18日),将东京审判评价为“胜者借审判之名对败者的复仇”(1月25日)。但另一方面,他又写道“我这次绝对不再参加战争”“与中国的战争,是我们单方面推进的单方面侵略”(3月11日)。尽管如此,他对新宪法草案的和平条款只字未提,却谴责将天皇作为“国民统合的象征”的“邪恶的修正案”(3月8日)。
这样的渡边所相信的,是自己手足的劳动、成为劳动对象的自然,以及死去的战友们。每次的日记,大多以描写劳动和自然开始,夹杂着死去战友们的记述。而与这些形成对比的,是周围人们的“框架”受到批判,以及持续等待战死儿子归来的母亲的身影。对失去一切可依托参照点的他来说,“在天之战友”(3月20日)正是唯一绝不会背叛他的、唯一的参照点。
这里存在的,是拒绝一切“框架”、试图从零开始摸索的姿态。他写道:“对任何先生的话都感到失望。话语、话语,只有话语而已”,并写道“我只想相信自己用眼和手脚确认过的事,用自己的头脑思考到满意为止的事”(4月19日)。这本《破碎的神》之所以能成为稀有资料,正是因为它记录了在战时框架已然崩塌、却尚未被战后某一时段定型的“民主主义”“和平主义”等框架所束缚的那一瞬间的探索与试错。
本书的定位
具有如此特征的本书,究竟是“记录”还是“文学”,抑或是“思想”?本书甚至可以说拒绝了这种以“框架”进行定位的方式,那么能否将其视为战后史的资料?本书出版于1977年,并非当时日记的原貌。若问本书的记载是否为当时的“事实本身”,恐怕也未必尽然。
然而,记录了过去“事实本身”的资料,真的存在吗?战时报道及陆海军的官方记录可信度存疑,这是众所周知的事实。即便这些问题已被澄清的文书、统计、影像等,它们也并非“事实本身”,只不过是从某一立场截取的事实某一侧面而已。
因此,历史学家试图通过比对多种资料来查明“事实本身”。关于战斗或事件的经过等,这在一定程度上是可能的。但关于当时人们在思考什么,这项工作却并不容易。因为人的意识无法从外部“客观地”观测,只能从其转化为文书、发言、行为等的产物中进行解读。
当然,有大量当时人们写下的表达自己想法的资料。但正如本书所记载的,渡边在水兵时期寄回家的信,也不过是套路式的华美辞藻的堆砌(10月17日)。从中无法窥见其作为水兵所面临的私下惩罚,以及对军队不合理性的批判意识。若将此视为展示“当时渡边所思考之事”的资料,便会与“事实”失之交臂。 渡边的信之所以写得中规中矩,一部分原因确实是当时军方会对书信进行审查。但与此同时,这也反映出一种作为普通人的常态——我们往往只能用那些约定俗成的套话来表达自己。试想一下,正在读这段话的你,如果被要求写下‘自己究竟怀着怎样的想法在生活’,你能做到不堆砌那些媒体和社交网络上随处可见的陈词滥调,写出真正属于自己的东西吗?过去的人们,其实和我们并没有什么不同。大多数普通人,往往只能留下一些千篇一律的文字记录。虽然也有知识分子能够突破这种局限,留下更具深度的文章,但如果仅仅把这些精英的文字当作史料,在探寻普通大众(知识分子以外的人)究竟在想些什么时,就难免会遭遇瓶颈。因此,近年来的历史学为了挖掘那些没有留下书面记录的少数群体和工人阶级的历史,开始将个人回忆和口述历史作为史料来使用。作为这一领域的一种进阶发展,一种被称为“自我民族志”(autoethnography)的研究方法也逐渐为人所知——它让少数群体成员自己成为研究者,通过回顾并书写自身的经历,进而对其进行分析。
《破碎的神》以及渡边清留下的文章,可以定位为具有这种性质的东西。当然,它与其他文书记录一样,并非“事实本身”。渡边在作为自身海军体验手记写下的《海之城》中承认,除自身经历外,还加入了从其他舰艇乘员那里听到的事件等。但这并非他为了粉饰事实,而是为了更好地记录当时的“事实”而引入的变形。这正如画家在绘画时,为了将自己捕捉到的“事实”更好地转化为绘画这一形态而进行变形一样。
若要用现代的、恐怕也是渡边所厌恶的西洋式表达来为渡边的著作正名,可以说它是一种自我民族志。即便统计数据并非事实本身,而是为将事实转化为数值形态而施加了变形,我们仍可从统计中探求当时的“事实”。同理,渡边的著作若被适当地把握其中施加的变形,便能告诉我们许多“事实”。而战后这些“事实”的珍贵之处在于,它们记录了一个所有秩序土崩瓦解、人类不得不从零开始摸索前行的特殊时期,其中包含着极为罕见的实践记录。
日本語版
敗戦後の日本社会で生きていた人びとが、何を考えていたのか。それを知るための好個の資料が『砕かれた神』である。
渡辺清は1925年に静岡県富士郡上野村に自作農家の次男として生まれた。この時代の農家の多くがそうであったように、優秀であっても中学校に行く学費がなく、また次男だったため農家を継げるあてがなく、1941年に志願して海軍に入隊した。1944年10月のレイテ沖海戦で乗艦していた戦艦「武蔵」が沈んだが生還し、故郷に復員したあと1946年4月に東京に上京。働きながら進学し、作家の野間宏らを中心とした合評会に加わった。1969年には日本戦没学生記念会(わだつみ会)の事務局長となり、「戦争体験の思想化」にとりくみ、自身の戦争体験と天皇観を著作として出版したが1981年に病没した。
『砕かれた神』は、戦後に復員したあと東京に向かうまでの記録であり、1977年に初版が出版されている。この題名は、戦争中に「現人神」とされていた天皇を頂点とする信念体系の崩壊を指す。
本書の背景
戦後80年以上が経過したいま、この本を読む意義はどこにあるのか、と考える人もいるだろう。だが敗戦後という一時期は、あらゆる既存の秩序が崩壊し、人びとがゼロベースで物事を考えなければならなかったという意味において、きわめて興味深い、例外的な時期であった。
まず経済秩序が崩壊した。都市は空襲で灰燼に帰し、製造業大企業は壊滅状態となった。急激なインフレで金融資産は意味を失い、食料を生産していた農村が一時的に優位に立った。戦時期からの食糧統制が続いていたため、コメを始めとした農産物は政府の公定価格で強制買上(供出)されていたが、食料や物資を公定価格の数十倍で横流しする闇商売が横行した。
そうした経済秩序の崩壊のため、当時は東京帝大を卒業した大企業職員よりも、ゼロから開業した闇商人の所得のほうが高いという状況が生じていた。後年の回想でよく使われた「敗戦後は青空が見えた」という言葉は、戦争が終わった安堵感だけではなく、既存の階層秩序が崩壊した解放感をも意味していたのである。
また敗戦後は、急激な人口移動の時期でもあった。各地の戦場にいた日本兵約310万、満州開拓移民その他の民間人約350万が内地に「復員」「引揚」したほか、軍人・軍属約210万、民間人約100万の合計310万が敗戦までに死んだ。1945年11月時点で沖縄をのぞく内地人口は約7200万だったから、おおむね20人に1人が死に、10人に1人が難民として海外から帰還したことになる。このほか都市部から強制疎開させられた児童、空襲で家や仕事を失った疎開者など、荒廃した都市部から農村部に一時移動せざるを得なくなった者も多かった。本書の随所にも、こうした人びとの姿が描写されている。
人口移動は「日本人」だけに起きたのではない。敗戦後の日本からは朝鮮・台湾・樺太などの「外地」と沖縄が切り離され、戦時動員などで「内地」に移動していた朝鮮人など約220万の約7割が帰還した。だが日本政府が財産の持出制限を設けたうえ、内戦状態だった朝鮮半島に帰れず、日本に残留した者も少なくなかった。本書の1945年10月26日分で言及されている「屑屋の金さん」はこうした事例の一つである。
そして敗戦は、精神的な秩序の崩壊であった。敗戦まで敵だったアメリカが模範として仰がれ、神とされていた天皇が人間宣言を行い、最高の名誉とされていた戦死が無意味な犠牲となった。そうしたなか、「文化国家」や「民主主義」といった流行の言葉に便乗する者もいたが、まじめに考えようとする者ほどそれに抵抗感を覚えた。そうした人々の中から、既存の思想の枠組みに頼らず、新しい枠組みを築こうとする試みが生れた。
敗戦後という一時期が興味深いのは、こうした点にある。既存の経済・社会・思想の秩序が崩壊し、ゼロから秩序を作ろうとする試みが現れた。だがその稀有な瞬間において、当時の人びとが何を考え、どのように模索していたかを示す資料は、それほど多いわけではない。『砕かれた神』が貴重なのは、まさにそうした稀有の資料だからである。
本書の特徴
この時期の農村を記録した著作としては、新山新太郎『敗戦そのとき村は』(農山漁村文化協会)などがある。しかし渡辺清の『砕かれた神』の特徴は、1945年9月2日から1946年4月20日までの日記の形態をとり、復員兵の視線でその当時の人々の群像を鮮やかに記していることである。ここに記載されている村人たちの動向、たとえば戦没者遺族世帯の様子(11月16日、2月21日、3月10日)、疎開者への排除(1月17日、2月8日)、都市への反感(12月6日)、元上官への復讐(12月25日)、軍需物資の横流し(4月3日)などの記述は、当時の世相をよく示している。
だが『砕かれた神』のさらに特徴的な点は、一人の復員兵の精神動向という形態をとって、いっさいの既存の「型」を拒否し、ゼロから思考しようとする姿勢を記述していることにある。本書において渡辺は、天皇を頂点とした戦時中の「型」から抜け出そうともがいている。だが同時に彼は、戦後の「型」である「文化国家」や「民主主義」をも拒否しようともがくのである。たとえば12月17日の記述はこうだ。
天皇がなんだ
日本がなんだ
愛国心がなんだ
民主主義がなんだ
文化国家がなんだ
ふん、そんなものはみんなみんなくそくらえだ
本書で渡辺が憎悪し、くりかえし批判の対象にしたのは、戦中に「愛国心」を説き、戦後には「民主主義」を説いた教師や知識人である(11月15日、3月4日、4月9日)。彼にとって、そうした機会主義者の際たるものが天皇であった。日本国憲法の政府草案が公表されたさいのこととして、渡辺はこう記した(3月8日)。「己れの責任をいささかも省みず、かつての敵の司令官につっかい棒をあてがってもらってまで、天皇でありつづけようとする天皇、そのれんれんとした執着ぶりは厚顔無恥としか言いようがない」。「これほど節操のない無責任きわまる天皇をどうして国民の『象徴』と言えるのか」。
こうした渡辺の思想を、「軍国主義」「民主主義」「平和主義」などといった「型」で分類するのは無意味である。彼は一方では「かつて敵だったアメリカはこんごもおれにとっては敵だ」と書き(3月18日)、東京裁判を「裁判の名を借りた勝者の敗者に対する復讐」だと評する(1月25日)。しかし一方で彼は、「おれはこんどこそ戦争には絶対に参加しない」「支那との戦争は、こちらから一方的に押しこんでいった一方的な侵略だった」と書く(3月11日)。そうでありながら、新憲法草案の平和条項には何の言及もせず、天皇を「国民統合の象徴」とした「まがまがしい改正案」だと非難している(3月8日)。
このような渡辺が信じるのは、自分の手足を使った労働、その対象である自然、そして死んだ戦友たちである。毎回の日記は、多くが労働と自然の描写で始まり、死んだ戦友たちの記述が混じる。そしてそれらと対比するかのように、彼の周囲の人間たちの「型」が批判され、戦死した息子の帰還を待ち続ける母親の姿が描かれる。それはあらゆる拠るべき参照点を失った彼にとって、「在天の戦友」(3月20日)だけが、決して裏切ることのできない、唯一の参照点だったからにほかならない。
ここにあるのは、一切の「型」を拒否し、ゼロから模索しようとする姿勢である。彼は「どの先生の話にも失望した。言葉、言葉、言葉だけだった」と述べ、「自分の眼と手足でたしかめたこと、納得のいくまで自分の頭で考えたことだけを信じようと思う」と書く(4月19日)。この『砕かれた神』が稀有な資料たりえているのは、戦時期の枠が崩壊していながら、戦後のある時期以降に定型となった「民主主義」や「平和主義」といった枠からも自由であった一瞬における、模索と試行錯誤を記録している点にある。
本書の位置
このような特徴を持つ本書は、「記録」なのか、「文学」なのか、「思想」なのか。本書はそうした「型」による位置づけを拒否しているともいえるが、これを戦後史の資料とみなしてよいのか。本書は1977年に出版されたもので、当時の日記そのままではない。本書の記載が当時の「事実そのもの」なのかといえば、そうとは限らない可能性もある。
とはいえ、過去の「事実そのもの」を記録した資料など存在するだろうか。戦時期の報道や陸海軍の公式記録が、信憑性において疑念があるのは周知のことである。そうした問題がクリアされている文書や統計、映像などであっても、それらは「事実そのもの」ではなく、事実のある側面を、ある立場から切り取ったものにすぎない。
そのため歴史家は、複数の資料を照合することによって「事実そのもの」を突き止めようとする。戦闘や事件の経過などについては、これがある程度は可能である。しかし当時の人びとが何を考えていたかについては、この作業は容易でない。人間の意識は外から「客観的」に観測することはできず、当人が文書や発言、行為などに転換したものから、解釈するほかないからである。
もちろん当時の人々が、自分の考えを書いたとされる資料は大量に存在する。しかし本書でも記載されているように、水兵だった時期の渡辺が実家に書き送った手紙は、型通りの美辞麗句の連なりでしかなかった(10月17日)。ここには、彼が水兵として直面していた私的制裁をはじめ、軍隊の理不尽さに対する批判意識はうかがえない。これを「当時の渡辺が考えていたこと」を示す資料だとみなせば、「事実」を捉えそこなうことになる。
渡辺の手紙が型通りだったのは、当時の軍が手紙を検閲していたためでもある。だがそれは同時に、型通りの言葉でしか表現をすることができないという、人間として通常のあり方のためでもあった。いまこれを読んでいるあなたが、「何を考えて生きているか書いてください」と言われて、メディアやSNSで流通している決まり文句を連ねる以上のことができるだろうか?過去の人びとも同じである。
多くの人間は、型通りの文章しか書き残せない。知識人にはその限界を超えた文章を遺す者もいるが、それを資料とするだけでは、知識人以外の民衆が何を考えていたかを探るうえで限界が生じる。そこで近年の歴史学では、文書記録が残っていないマイノリティや労働者階級などの歴史を探るために、回想やオーラルヒストリーが資料として使用される。その一つの発展型として、マイノリティ自身が研究者となり、自身の経験を回想して書き残し、それを分析するオートエスノグラフィという研究手法も知られている。
『砕かれた神』をはじめ、渡辺清が書き残した文章は、こうした性格のものと位置づけることができる。それはもちろん、他の文書記録等と同じく、「事実そのもの」ではない。渡辺は自分の海軍体験手記として書いた『海の城』では、自身の体験に加えて、他艦の乗組員から聞いた事件なども含めて書いたと認めている。だがそれは彼が事実を粉飾するためではなく、当時の「事実」をよりよく記録する目的で導入したデフォルメである。それはちょうど、画家が絵画を描く際に、自分が捉えた「事実」をよりよく絵画という形態に転換するためにデフォルメを行うことに例えられるだろう。
渡辺の著作を、現代的な、おそらくは渡辺が嫌ったであろう西洋的表現で正当化するならば、一種のオートエスノグラフィということができる。統計データが事実そのものではなく、数値という形態に事実を転換するためのデフォルメを施したものであるとしても、統計から当時の「事実」を探求することはできる。それと同様に、渡辺の著作は、そこに施されているデフォルメを適切に踏まえて扱うならば、多くの「事実」を教えてくれる。そして敗戦後における「事実」には、あらゆる秩序が崩壊し、人間がゼロから模索をしなければならなかった時期における、稀有な実践が含まれているのである。
・本文为小熊英二为“谓无名”公众号读者所作。
・感谢小熊英二授权发布。
・图片源于网络。
作者简介

小熊英二,日本社会学者,专攻历史社会学。出生于东京都昭岛市,曾就读东京都立立川高等学校、名古屋大学理学部物理学系,后来转到东京大学农学部并在 1987 年毕业,后进入岩波书店工作。之后又进入东京大学大学院综合文化研究科国际社会科学就读,于 1998 年 3 月时提交论文〈「日本人」の境界:支配地域との関係において〉取得博士学位。1997 年起成为庆应义塾大学综合政策学部专任讲师,2000 年升任助教授、2007 年再升任教授。著有《“民主” 与 “爱国”:战后日本的民族主义与公共性》《单一民族神话的起源:“日本人” 自画像的系谱》《活着回来的男人:一个普通日本兵的二战及战后生命史》等 。
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